記事一覧

埼玉・都幾の湯の紹介です。3

ファイル 240-1.jpg

さて、こちらは受付からお風呂に通ずる間にある、所謂足湯になります。そうですね、本来の足湯の施設としては弊社でもそうなのですが、四方を囲む形なのですが、こんな感じの長いものもいいですね。特に長机?が設置されているのが嬉しい限りになります。場所的には、前の方向に名物?三波渓谷があるのですが、残念ながら見ることが出来ません・・まあ、ここまで望まなくても竹林を見ているだけで十分にリラックスは可能になりますね。と、いうよりも写真に映る女性2人の恋愛談義?に興味津々??となってしまいました・・男の人も女の人も人間ですから、考えることは同じなのでしょうかね?大変、いい勉強になりました(笑)そうそう、こちらの温泉源泉も弊社と同じでタンクローリーにて輸送、約5倍に希釈しての使用だそうです。

埼玉・都幾の湯の紹介です。2

ファイル 239-1.jpg

さて、こちらは館内のお風呂、そうですね、風呂の設備自体、ちょっと狭いかな?ただ私が訪れたのは、仕事にこの近くに出掛けた際の平日の3時、まあ、どこの施設にも同じことが言えるのかもしれませんが、やはり空いているのが宜しいのでしょうかね?特に違和感というか嫌悪感を感じることはありませんでした。是非、皆さんにも平日に出掛けることをお奨め致します、癒しを感じるにはそれしかありません、混んでいては疲れるだけですからね。温泉の成分は源泉名:都幾の湯、泉質:ナトリウム一塩化物温泉(等張性・アルカリ性・低温泉)、泉温:26.8℃、浴用の適応症は神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化器症・痔症・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷・火傷・慢性皮膚病・慢性婦人病などだそうです。

埼玉・都幾の湯の紹介です。

ファイル 238-1.jpg

当ブログの2006年3月22日掲載分、埼玉県ときがわ町にある温泉スタンドを使用したときがわ町営の温泉施設の紹介になります。都幾川四季彩館、2006年7月29日にオープンした比較的に新しい施設になりますが、元は旧都幾川村の番匠地区にあった古民家を移設した物を地元産木材で改修し、新しく日帰り温泉として再利用されたものになります。元々、旧都幾川村の時から製材業の方々の工場などが多く存在し、町自体も木材製品などをより知ってもらおうと努力しているみたいなので、この辺の事情は察しが付くところになりますね。ただ、あまり大きな声では言えませんが、地元の友人などに聞いてみると随分とお金が掛かったみたいですね・・今、こういう無駄遣い?(御免なさい)は財政難の地方公共団体などでは随分と問題視されているので、十分な配慮が必要になるのは御理解を頂けると思います。ただ、この辺の事柄は兎も角、写真を見て頂ければお分かりかとは思いますが、真新しいコンクリート構造の建物より、こちらの方がいかにも古き良き日本?何となく畳などを想像させる建物の造りになりますので、入浴も然ることながら、半日くらいはこの施設、または近くを流れる都幾川の三波渓谷などの自然の癒しを楽しみながらの休息が可能かと思われます。

天然温泉 岩花の湯の紹介です。2

ファイル 237-1.jpg

さて、この山荘が位置する沢渡温泉(さわたりと呼ぶそうです)地区、草津温泉や四万温泉に比べ知名度はイマイチになりますが、国道353号線から暮坂峠に向う途中、交通量もあまり無く、また周辺の自然も満喫出来、とても感じの良いドライブとなりました。その道沿いにあるこの山荘のお風呂、たまたま他に人もいない状態、思う存分?に写真を撮影させて頂きました。源泉名は有笠温泉岩花の湯、泉質は単純硫黄冷鉱泉(硫化水素型)・(弱酸性低張性鉱泉)、泉温は17.5度、PHは3.8、湧出量は自然湧出で、100リットル/分になります。また、加水はしていませんが、入浴に必要とされる加温はされているそうです。失礼ですが、あまりメジャーではなくすぐに予約可能なこの山荘、是非、出掛けてみて下さい。お奨めはやはり初夏からでしょうか?

東京・浅草花やしきの紹介です。3

ファイル 235-1.jpg

戦時中には映画会社松竹の関連会社となりますが、戦後の1947年(昭和22年)東洋娯楽機という会社との共同経営で再び開園し、遊園地「浅草花屋敷」と改名、2年後には東洋娯楽機に経営が委ねられ「浅草花やしき」と改名したそうです。そして1953年(昭和28年)のローラーコースター、1950年(昭和25年)のBeeタワー(掲載写真参照)など現在あるアトラクションが登場し始めたそう。また花やしきは長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていましたが、1985年(昭和60年)の風営法改正に伴い回数券とは別に入園料の徴収を開始したそうです。その為でしょうか、入場券売り場には、入場料込のフリーパスというものが販売されておらず、頭を傾げる感じになりましたが。2004年(平成16年)にトーゴ(旧・東洋娯楽機)が会社更生手続きの開始を申し立てたことにより、バンプレストの子会社、株式会社花やしきが8月31日にその事業を承継、 2005年(平成17年)芸能スクール、花やしきアクターズスタジオが開設、2007年(平成19年)3月10日には、10年ぶりの大型アトラクション「DISK-O」がオープンし現在に至っています。入園料は大人900円、小人400円、フリーパス(入園料別途)で大人2200円 、小人1900円 になります。そうですね、大人で全部込みで2500円くらいにして欲しいところになりますね、休園日は毎週火曜日になるそうです。都心にはこの他に豊島園など、とてもアクセスが良い遊園地がありますね、もう少し見直されてもいいのではないでしょうか?わざわざ舞浜まで行かなくても宜しいとは思いますが。

東京・浅草花やしきの紹介です。2

ファイル 234-1.jpg

当初、花やしきの主な利用者は上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園という感じであったそうですが、徐々に庶民にも親しまれる様なトラやクマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりしたそうです。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになりました。大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生など、当時の話題ニュースを生んだそうです。戦時下において残念ながら徐々に規模を縮小し、1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却し、1942年(昭和17年)に強制疎開によりついに取り壊されたそう・・写真は1953年営業開始の日本最古で最初のローラーコースター、私も約30年振りに乗車しましたが、当時の方が怖かったかな?隣の家との壁がもっと近かった様な気がしましたが・・・

東京・浅草花やしきの紹介です。

ファイル 233-1.jpg

浅草花やしきは、東京都台東区浅草二丁目にある日本最古の遊園地です。1853年(嘉永6年)の開園。敷地面積は5800m²になり、狭いのですが、交通の面などでのアクセスは最高ですね、摩天楼の遊び場といったところでしょうか?現在はゲーム関係で著名なバンプレストの子会社である株式会社花やしきが運営しています。1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園。当時の敷地面積は約80000m2であり、江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用されたそうです。明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎とその長男・松之助が経営を継承、翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示したそうです。

沖縄・世界遺産守礼門になります。

ファイル 232-1.jpg

首里城観光の真っ先に訪れる名物建物で、門の中央に「守禮之邦」の四字を掲げています。戦前は国宝の指定を受けた価値ある貴重な建物でありましたが、沖縄戦で焼失、その後1958年に復元されました。復元事業は「礼儀を重んじる琉球の理想を象徴する」ものだという趣旨で、全住民、外地同胞および琉米親善委員会の寄付金、琉球政府および那覇市の補助金を得て行われ、資料によれば当時の工事費は23,514ドル余であったそうです。首里城跡地には琉球大学の施設が建設されていたため、復元されたのはこの門だけにとどまり、その為に首里城が復元されるまでは、日本三大がっかり名物のひとつとされていたそうです。かつて首里城跡に国立琉球大学があった頃には、「受験前に守礼門を見るとがっかりして落ちる」という伝説もあったそう。因みに他は札幌の時計台と高知のはりまや橋だそうです。

沖縄・世界遺産首里城になります。2

ファイル 231-1.jpg

ここで首里城のごく最近の経緯を紹介したいと思います。1879年の沖縄県設置における琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用されました。その後の首里城は急速な荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になり、正殿の取り壊しも検討されたそうです。しかし、伊東忠太氏、鎌倉芳太郎氏ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(28年~33年)に正殿の改修工事が行われ国宝に指定されましたが、戦争中の沖縄戦において、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、45年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされています。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊され、宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は米軍に略奪されました。戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願、58年に守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、72年の日本復帰後は城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建、79年に琉球大学が移転すると80年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元開始。89年、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まり、92年には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園しました。写真は正殿内で見学可能な遺構になります。

沖縄・世界遺産首里城になります。

ファイル 230-1.jpg

首里城は琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)でありました。戦前は正殿などが国宝であったが、残念ながら1945年の太平洋戦争における沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っているだけになります。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。1993年に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になり、2000年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録。ただ、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではないそうです。ここで紹介する写真は復元された首里城正殿になります。

ページ移動